前の記事に続き、和牛生産部会の視察研修を抜けて、単独で緊急避難施設と忠富士のお墓へ行った。
特例で緊急避難した種雄牛6頭でしたが、内1頭が発症。それが忠富士でした。
他の5頭は、福之国、勝平正、秀菊安、美穂国、安重守で、正にその後の宮崎を支え続けた5頭ですね。
この6頭が特例処置を得て、直ちに避難先を求めたのが西米良村。しかし、そこは近隣に家畜がいる事かわかり、そのまま野営。そして見つけたのが西都市の尾八重(おはえ)地区にある尾八重牧場跡地で、正確には眺望館という集会施設のある広場のようです。
ここへ緊急避難施設として種雄牛の牛舎を建て、厳重管理下に置いた。
しかし、忠富士だけが感染を示す結果を示し、患畜として殺処分された。
事業団に残された49頭の種雄牛は、一部に発症が見られ、患畜、疑似患畜として殺処分され事業団内へ埋葬された。
他の5頭は、この眺望館の前と、少し離れた場所とに分かれて、2カ所で厳重な管理の下、検査結果も問題なく、最後まで難を逃れ、そして元の事業団高鍋種雄牛センターと、高原町の産肉能力検定所へと分散して帰っていきました。
以上のような経緯ですが、私はずーと気になっていたのが、忠富士の埋葬場所です。
避難したところで殺処分扱いになったので、その場所からは移動できないはず。仮の施設なので、ホントにそこへ埋葬するのだろうか。
他の49頭は事業団内で埋葬なので別々なのか。といった疑問が当初からあったのです。
そこで、口蹄疫からしばらく経ってからですが、事業団の方と話す機会があり、この疑問を聞いてみると、やはり緊急避難施設のところに埋葬してあるということでした。
行ってみたい・・・
行っても何もならないのですが、唯一事業団の施設以外で、種雄牛の墓を間近にできるところ。
それも、宮崎のトップになる種雄牛であったにもかかわらず、無念の内にこの世を去った虚しさを感じるところ。
そして何より、1頭だけ、他の種雄牛の仲間達とは別々に埋葬されてることの寂しさを、感じずにはいられないところかなと思います。
たった、1頭だけ・・・
今回、研修とはいえ西米良種雄牛センターまで来たのだから、ココへ行かないわけにはいかない、そう思い、ココへ向かいました。
一ツ瀬川沿いから曲がり、大椎葉トンネルを抜けて直ぐ、尾八重と南郷との表示看板。当然尾八重へと思い、左の尾八重川沿いへハンドルを切る。
ナビ通り!
しかし、この道は合っているのですが、正に林道で、離合はほぼ無理な程狭い。うねうねしてるので対向車が来るかどうかも分からない。でも、事業団も種雄牛積んだトラックでここを通って避難したんだーっと信じて突き進んでいくと、尾八重集落を抜けていくと、なぜか大きな道に出る?。
あのトンネルを出た後の看板の南郷へ向かうのがココへ来るようです。ひむか神話街道と言うらしいw
これもナビ通り。近道を教えてくれたらしい。
この大きな道の所に、眺望館という看板が見え、無事到着。
広々とした場所に、眺望館という建物の前に、仮設のような建物がシートで密閉されて建っていました。これが緊急避難施設牛舎です。その横には堆肥舎らしきもの。手前には車両の消毒槽らしきものがあり、採石が埋めてありました。
そして、そのずーーーっと奥に、ポツンと白い柱のようなもの。
これが、忠富士のお墓でした。
お花が供えられていました。ここ最近、西都の女性部の方々が向かったとの話を西米良センターの方に聞いていた。
まわりはこんもりと、広い範囲で盛り土をしてある感じで、草が刈ってありました。この夏に関係者で草刈りをしたそうです。年に一回はしているらしい。
その盛り土に、発掘を禁止する家畜保健衛生所の告知看板が、立ててありました。
何とも言えない静けさが印象的で、広い空間と遠い山々、風と草がこすれる音、うすく流れる雲、白い墓標、そして「忠富士号 この地に眠る」の字。
いろいろなものが、通り過ぎていきました。
いろいろなものが・・・
場所(GoogleMap)>
忠富士の墓
お花が供えられていました。
私有地とお聞きしたので、私はあえて何も持っていかず、残しませんでした。
告知、発掘禁止。
忠富士が、いつも見ている風景。
緊急避難施設牛舎と消毒槽。
完全密封された牛舎。ここにいたんだね。
眺望館。
眺望館のサルとフクロウ。
トンネルを過ぎるとこの看板。そりゃ尾八重に行くでしょ。正解は南郷へ。

左は、下の動画の通り。
ラリーみたい。
こういうのはどうか、と思ったけど、写真では残せないものもあると思って。
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